乾杯は【伊丹の酒】で!
伊丹市医師会会長 原弘さん
――原さんのお生まれは、どちらですか?
出身は池田なんですが、軍医として戦争に行った父が戦死して、母の実家の徳島で育ちました。小学校5年の時、母は伊丹の外科医と再婚しましたが、私は徳島に残って祖父母と暮らしていたんです。親戚はほとんどが医者でね、他の職業のことをあまり知らなかったから、私も医者を目指して徳島大学医学部に入りました。当時はインターン制度というのがあって、医大を卒業して1年間、大学などで臨床実習を積まなければ、国家試験は受けられなかった。その間は無資格でただ働きですから、全国の医大生が運動して、春の医師国家試験をボイコットしたんですよ。昭和41年のことです。
――学生運動が、最も盛んな時代ですね。
ボイコットしたものの、医師の資格がないから医療行為は行えないという現実に直面して、ほとんどの学生が秋の国家試験を受けることにしたんです。そうしたら、後輩が「裏切り者!」と怒って受験を阻止するためにバリケードを張ってね、我々はかつて敵対していた機動隊に守られながら(笑)、試験会場に入りました。同じことが3年ほど繰り返されましたが、その甲斐あってインターン制度は、昭和43年に廃止されたんです。
――そうだったんですか。国家試験合格後は、どちらに?
神戸大学の医局に入って博士号を取り、豊岡の日高病院に2年勤めました。伊丹の父に呼ばれて、原外科の隣に内科の診療所を開いたのが、昭和52年で37歳の時です。父は間もなく体を悪くしたので、一緒に仕事ができたのは、わずか4年ぐらいでしたね。
――原さんは、お酒の方はいかがですか?
あまり、飲めないんですよ。だから、コミュニケーションは、もっぱらゴルフです。伊丹に来て、医師会の役員を引き受けて、良いゴルフ仲間ができました。私は、ついムキになってしまうタイプなので、トイレに入っては考え、布団に入っては考え(笑)、ハンディは最高で8まで行ったんですよ。
――シングルですか! 学生の時はどんなスポーツを?
野球部で、キャッチャーをしていました。プロ野球は阪神が好きで、テレビ中継を見る時は、つい監督の気持ちになって手に汗をかいたり、顔が引きつったりしていますね(笑)。とにかく勝負ごとが大好きで、戦国時代の歴史ものも大変興味があります。偉い大将が戦いに勝つ秘訣はどこにあるのか、考えるだけでゾクゾクしますよ。いつか時間が出来たら、もっと歴史を調べてみたいと思っています。
――ところで、全国的に医師不足が問題になっていますが。
確かに医師の数は足りません。けれど、急に増やすことは難しい。医師不足を補うためには、開業医と病院の勤務医の連携が必要なんです。地域の診療所が、患者さんを診て「何かおかしい。専門的な処置が必要かも」と感じたら、すぐに病院に連絡を取って患者さんの病気に対し、適切な医療をしなければなりません。そのため常日ごろから、開業医と病院勤務医は、顔の見える関係、「病診連携」の推進に向かって努力しています。伊丹市医師会ではその1つとして、勉強会や講演会を企画して親睦を深める機会を作っています。また、医療だけでなく、保健、介護の面でも、市立伊丹病院、近畿中央病院と連携を密にして、伊丹市民のために、医師会はがんばっていく覚悟です。
――ぜひよろしくお願いします。われわれ市民は、伊丹の医療を守るために何をすべきでしょう?
一番大切なのは、医療提供者と医療を受ける市民の皆さんとが、協力し合って良い医療を守ることだと思っています。市民の皆さんが、ご自分の健康に関心を持っていただき、定期的に健康診断を受け、また、健康に関する講習などにも積極的に参加し、情報を得ていただくことですね。正しい知識を身につけ、その上でからだに異常を感じた時は、まずかかりつけ医に相談し、専門的判断を受けるのが大事なことです。
――最後に、これからの伊丹について、提案がありましたらお聞かせください。
そうですね。まずは、学校教育に力を入れてほしい。財政事情が厳しいと、教育に回すお金を後回しにしがちですが、綺麗な学校で、心温まる教育を受けた生徒は、必ずや故郷伊丹、いや日本を支える立派な成人となってくれると思います。その1つとして、武道の持つ自主、礼節の精神は、現代社会においては、とっても大切なことではないでしょうか。幸いなことに、伊丹は古くから「なぎなた」のメッカで、伊丹みたいな小さな市に、全日本なぎなた連盟の事務局があるんです。勝ち負けだけでなく、礼譲や信義を重んじる「なぎなた」は、すばらしいスポーツです。2年前から毎年、スポーツセンターで全国高等学校なぎなた選抜大会「なぎなた甲子園」が開催されていますが、今後もさらに「なぎなた」にスポットを当てて、普及させていただきたいと思います。私も応援していきますよ。